苫米地式コーチング認定コーチの萩原崇です。
この連載の本編は、第8回で完結しました。今回と次回は番外編として、本編に入りきらなかった、でも学生のみなさんにぜひ届けたい話を2つお届けします。1本目のテーマは、部活と勉強の関係です。
「受験生なんだから、部活は……」
学年が上がると、こんな空気を感じたことはないでしょうか。「そろそろ部活より勉強でしょ」「運動ばかりしていると頭を使わなくなる」。逆のパターンもあります。「あいつはガリ勉だから体育はダメ」。
どちらの言い方にも、共通する前提が隠れています。体を使うことと頭を使うことは別物で、片方に使った時間はもう片方の損になる、という前提です。
今回お伝えしたいのは、この前提そのものが疑わしい、という話です。
心と体は、そもそも別物ではない
苫米地博士は、武術を題材にした著書で、はっきりとこう述べています。
心を鍛えるとは身体を鍛えることであり、身体を鍛えることは心を鍛えることなのです。
——苫米地英人『武術に学ぶ 一瞬で自分を変える技術』
私たちは「体は体、心は心」と、2つを別々のものとして考えることに慣れきっています。
博士によれば、これは西洋的な二元論の考え方が染み込んでいるだけで、実際には「身体と心はひとつ」です。
別々に鍛えるものではないし、「同時に鍛える」という発想すら、二元論に引きずられている、とまで言っています。
ピンとこないかもしれないので、同じ本に出てくる自転車の例を紹介します。自転車に乗っているとき、私たちは「左右のバランスをうまく取ろう」と意識してはいません。体が勝手にバランスを取っています。どうやって取っているのか、言葉で説明することすら難しい。乗れるようになるまではあれほど苦労したのに、一度乗れてしまえば、今度は乗れないようにするほうが難しいくらいです。
歩くときも同じです。「右足の次は左足」と考えて歩く人はいません。博士はこうした無意識の身体操作を「心は身体」のひとつの例として挙げています。心の働きだと思っているものの大部分は、意識にのぼらないところで、体とひとつづきに動いているのです。
ひとつ注意も添えられています。「心と体がひとつなら、筋トレをすれば心も強くなるんだな」というのは早合点です。本書に協力している沖縄拳法空手の山城美智師範は、それを「弱い心に筋肉を貼り付けているだけ」の可能性があると表現しています。外からは強く見えても、筋肉を剥がすと弱い心がそのまま残っている——バランスを欠いた鍛え方への、うまい警告だと思います。
部活の練習で起きていること
ここで、部活の練習を思い出してみてください。
タイムを0.1秒縮める。フォームのわずかなズレを直す。ボールを見ないでトラップできるようになる。楽譜を見ずに指が動くようになる(文化部の練習も、体の訓練という点では同じです)。どれも最初は、頭で考えながらのぎこちない動きです。それが練習を重ねるうちに、考えなくてもできる動きに変わっていく。
これは、自転車の例とまったく同じ構造です。バラバラだった個々の動作が、あるときひとつのまとまりになって、意識しなくても全体として機能するようになる。部活の練習とは、心と体をひとつのものとして動かす訓練を、毎日積み重ねていることにほかなりません。
このときみなさんの中で起きていることに、実は本編でおなじみの名前がつけられます。
ゲシュタルトとは、全体と部分が双方向的に関係しているという概念で、全体は部分の総和以上のものである、と考えます。
——苫米地英人『すべての仕事がやりたいことに変わる 成功をつかむ脳機能メソッド40』
ゲシュタルトとは、部分の寄せ集め以上の「ひとつのまとまり」のことです。個々の筋肉の動きを足し算しても「自転車に乗れる」にはなりません。部分がつながって、ひとつの全体として立ち上がったとき、初めて乗れるようになる。技能の上達とは、体を使ったゲシュタルトの構築なのです。
そして、勉強も同じ仕組みで動いている
ここからが本題です。苫米地博士は、勉強や理解についても、同じ言葉で説明しています。
『脳にいい勉強法』では、理解力とはゲシュタルトをつくれる能力のことだとされています。
一つひとつの音にはメロディも哀愁もないのに、集まると美しいメロディになる。個々の知識も同じで、バラバラに覚えている段階では意味をなさず、つながってひとつの体系になったとき、初めて「わかった」が起きます。数学の単元が、ある日突然つながって見えた経験はないでしょうか。あれがゲシュタルトのできた瞬間です。
さらに苫米地博士は、脳の側面からこう説明しています。
簡単にいえば、前頭前野は統合野、つまりゲシュタルト野です。脳の各部位で起きている現象を統合して、ひとつのリアリティをつくりあげる仕事をしています。
——苫米地英人『「1日10分」でスピード脳に生まれ変わる』
同じ本で苫米地博士は、思考とは抽象空間での運動行為だ、という趣旨のことも述べています。体の運動と頭の思考は、別々の営みではなく、「部分を統合してひとつの全体をつくる」という同じ仕事の、レベル違いだということです。
つまり、こういうことになります。部活でフォームを磨き込んできた人は、「バラバラの部分を、考えなくても動くひとつの全体にまとめ上げる」という経験を、すでに何千回も積んでいます。それは勉強で「わかった」に至るのと同じ型の経験です。体を使うことと頭を使うことは、損得で綱引きする関係ではなく、同じ能力の2つの現れなのです。

勝ち負けは、あっていい
もうひとつ、部活につきまとう「勝ち負けにこだわるのは良くない」という言葉についても触れておきます。
ここには混同があると私は考えています。良くないとされるべきなのは「勝ち負けに囚われて他が見えなくなること」であって、「勝ち負けがあること」自体ではありません。勝敗のないサッカーを面白いと感じる人は、あまりいないはずです。
むしろ、勝ちたいという気持ちがあるからこそ、タイムを縮め、フォームを直し、動きを磨き込む、つまり、心と体をひとつに束ねる訓練に本気で打ち込めます。第7回のバランスホイールを思い出してください。部活のゴールは、勉強のゴールと同格の、人生の一分野の立派なゴールです。そこで真剣に勝ち負けを追いかけた経験は、分野を越えて持ち運べる財産になります。
なお、米国の大学に進むような人たちが、学生時代にスポーツへ本格的に打ち込んでいることが多いのはよく知られています。「運動する人は頭を使わない」という感覚のほうが、世界的にはむしろローカルルールなのかもしれません。第8回の言葉を借りれば。
おわりに
心と体はひとつであり、部活の練習は心身をひとつに束ねるゲシュタルト構築の訓練、勉強はその同じ能力の別の現れです。「部活か勉強か」という二択の空気に出会ったら、思い出してみてください。あなたがグラウンドや練習室で積み上げてきたものは、机の上でもちゃんと働きます。
次回の番外編2は、学び方の話です。参考書・解説動画・要約サイトに囲まれた時代に、あえて「オリジナルに当たる」ことの意味をお話しします。

